昭和五十四年五月二十八日 朝の御理解


御神誡 「一、口に真を語りつつ心に真のなきこと。」


 信心をさせて頂く者は言う事と、言うておる事と、行なう事、心に感じておることが、一致して行くような真の生き方をしなければ、ならんと言う事でしょう。やはり信心しておかげを受けると言う事が大切ですね。昨日、一昨日、日向教会の、今、高校三年生だそうです。手紙がまいりました。それに日頃から足がたたなくなって、何と言う難しい病気です。大変な、も、それこそ夜も昼もなしに、痛むんだそうです。それであちらの、教会長先生からそのお届けがあっておりました。そして、今延岡の田中恵美子先生の所で、治療をうけております。もう、毎日、毎日、石川のおばあちゃん、今、延岡の方へ見えてもうよにかく御信者さん方が訪ねて見える。患者さん方も皆見える。もうそれで信心の話、昨日、出んわがかかって参りましてから、その皆、御信者さん達皆から、電話がかかって来るんですよ。そのおばあちゃんが最後に言われるのに、もう、延岡では、御信者さんがもう、燃えに燃えております。よ言うて電話がかかって参りました。それにもう、患者さん方もその話を聞くのを、楽しみに見えるんだそうです。それで、その日向教会の息子さんも、当然、仲間に入ってお話を聞かなきゃならない。それがこの頃、聞くことが楽しう、有り難う、段々、なって来ておるようなおかげを頂いておるんですけれども。その手紙に書いてございましたが、お取り次ぎをお願いして、その日から痛みがなくなり足が立てるようになった。と言う事に驚きを感じております。と言う事です、ね。
 もう、今まで、とても両親の信心の難儀の状態を見ておったら、お道の教師なんか、思いも、おもわなかったけれどもね。それで今までは、僕は柔道のグループに入って、三年間稽古をして来たけれども、これを止めたらよいだろうか、どうだろうか。意志表示をしなければならないから、御神意を伺ってくれと言う事でした、ね。そしてその手紙には、書いてございませんでしたけども、あちらのお母さんから手紙が参りましたのには、こんどの子供の病気を境に、本人が合楽に高校を卒業したら、修業に行くと言っております、もう大変な難儀はみかげと、言われるが本当に子供の上に、広大なおかげを頂いた。と言う手紙が参っております。本人もそのって髪をに書いておりますようにね、お取り次ぎを頂いた。その日から痛みが取れ、それから、こう立てるようになったと言う。ま、奇跡的なおかげを頂いてです、ね。お道の教師にもならせて頂こう。合楽にも修業にやらせて頂こう。ね、これなんかは、口で言っておることと、心で思うておる事は同じだと、思いますね。だから、やっぱそういう本当に神様の働きには、も、どうにも出来ない。と言うようなおかげを頂かなければ、やっぱ本当な事にはなって来ないようですよ、ね。只そういう神様の間違いない働きとか教えと言うものを頂いてもす。ね、まだまだ厳密に言うて、所謂、口と心がつり合わない。行ないが、ま、行ないと言う事はね、仲々やはり難しい事ですけれどもね。それこそ、建て前はこうと分かっているんだけれども、仲々出きんと言うのですから、行ないは仲々難しい。
 昨日、淵上君が書いとった、あれ誰かひかえてる人があるかね。昨日、日曜日を利用して今、御本部の方から月参りさせて頂きたい。月に一回は御礼に出て来たい。今、教学研究所の方で、一生懸命、勉強やっとります。で、昨日あちらの一つの傾向と言うか御本部での事を申しておりましたが。
 教学の基本は信心の信心による自己吟味、自己展開、教学が信心を生み出す、と言う事はない。信心の一部分が教学になる。教学の立場は、教祖の生き方を最高、最良と信じ自らもその生き方を願いもとめる。教祖の生き方に智的な学問的操作を加える。その二つの関係で教学は成り立つ。
 今、言った通りです。教学なさる方達も教学から信心は生まれないんだ、と、ね。だからもう、限りない、本当は信心が必要だ。そういう意味で、なら、合楽ほど極めていっておる所はないのですから合楽的信心を身につけて、教学を頂いたら、いよいよ素晴らしい生きた教学が生まれるだろう、と言う意味の事を話ておりまう、ね。教学から信心は生まれない。ね、教学するもの自身がやはり、信心、言うならば神様の絶対性というか、もう自分自身が体験する、神様の間違いない働きを自分でも分かる。そこからでないと教学は生まれない、ね。そう言っております。建て前は今、申しましたようなとろで、沢山な人が勉強させて頂いてるけれども、ね。建て前は今の事だけれども。ならその勉強しとる、その人達、先生が信心を頂いていないから、結局建て前だけに終ると言う事を言うとるです、ね。建て前は、今の通りの事、ね。けれどもそういう信仰体験をもたない人達が勉強しておるから、建て前はそうだけれども、結果としてはそういう良いもの、本当の教学が生まれてこないと言うのです。そういう意味でも、言うならば合楽の心事と言うものが本当に一つ、基礎意的なものになって、勉強させて頂くと言う事は、そういうような事が段々、分からせ手頂けるような働きを、自分にそういう御用を頂きたいと言うております。
 言うならば、口では本当な事を言ってるわけですね。教学と、勉強をする先生肩は、これが本当だ、けれども、実際、信心は伴うていない。言うなら、言う事と行なう事はね、心に真のなき事、と言う事になるわけでございます、ね。だから、日々が例えばですよ、神様の間違いなさ、と言ったようなものを感じさせて、頂けば、頂くほど言う事と、思う事も、行なう事も段々一致してくるようなおかげを頂くだろう。言うなら空々しさといったようなのものがんなくなってくる。いや、それはもう、本当にバカらしい事になってくる。と言う訳なんです。
 それで私は、滝口先生所の息子さんが、手紙をよこしましたから、それに返事を書かなきゃならんから、今、その手紙を西岡先生の所にやっとりますから、恐らく返事を書いておって下さるであろうと思う。それに御神米に私が頂きました『心を見つめ 教えを行ずる』と頂きました。心を見つめ教えを行ずる。ね。
 心を言うならば、見ること、みること、自分を見ること、と言う、高橋正雄先生は言っとられますけど。見る事、みること自分を見ることなんですけれども、ね。自分の心をいつも見る。これは自分しか分からない。自分の心の状態が今、どうなっておるか。そうすと、まあ、本当汚い事、思うておる空々私意事を、口には言うておるけども、心にはそんなものがない。と言うようなものに気付くわけ。ためには、教えを行ずる他はない。そして段々、本当の事へ真の信心へなっていくんだと、言うわけなんです。
 今朝方から『四方庵』と言う事を頂いた。ここの御建築の事をお願いさせてもらいよったら、ね。四方八方の四方です。四方庵。ハハア、私共が今度、住まわせて頂く、お家はそういうふうな、四方庵と呼ぶように、なるかも分かりません。ね、そしてお願いさせてもらいましたら、四方庵と言うのが『四宝庵』四つの宝の庵といただきました。だから、四方庵と言う事は大体普通では使われないですね。四とか何とかと言う言葉は。しかもその家の、に、四宝庵なんかとは使いません。
 けれども、これがもう一つ飛躍すると、四方八方と言う事になるんです。そこを踏んまえての八方です。八方ばかりを願ったところでね、四方が大事なんだ。四方八方と、   。とぃう広がりにつながる言葉だ、とおもうのです。これはいよいよ、そう頂いてから、ハハア、四方庵とは、いいなあ、と思わせて頂いておったら、四方の方を宝と言う事を頂いた。『三宝様踏むな、三宝様踏むと眼がつぶれる。』とあるのは、あれは仏教の言葉から来たんだろうと思いますね。
 仏教では三つの宝の事を、仏、法、僧と言うふうに説いてあります。ね。三つの宝です。仏、法、僧。言うならば仏の教え、そしてそれを伝えるお坊さん、ね、お取り次ぎ者と言う意味でしょう。それに合楽の場合には、もう一つ、三宝から四宝、四っの宝があると言うのです。どう思うですか。仏、法、僧、の他に申一つ宝がある。皆は言うならば、宝を持ちながらね、宝の持ち腐れにしておるような事が、沢山あるのです、ね。その宝を皆さんが名々もってるんです。それは心です、ね。「心一つで すべてを創る」と言われる。もうそれこそ全てをいただけれる、どんな宝でも頂けるような心を頂いておるのですから、その心一つを身極めて、そして言うならば、改まりに改まり、清まりに清まり、ね。その心一つですべてを創る。所謂、宝、言うなら人間の幸せのすべてが、その心一つで集まって来る程しの宝を、お互い持っておるけれども、それをよう現わし得なかったら、たからの持ち腐れ、と言う事になるのです。ね、私は素晴らしい事だとおもいます。お互い、宝の持ち腐れにしちゃいかんです。
 それにはです。言うならば、言っておる事と行なっておる事、思うておることがです。どうでも一致するような生き方を頂くために、いよいよもって教えを頂き、ね、そのいよいよもって神様の一分一厘間違いのない働きをです。身に感じさせて頂くところから、こんなにも間違いのない働きの中にあるのだから、言うならばごまかしの生き方と、言うか、ね、教えに沿わない言うならば、天地の道理にそわない生き方と言うかは。もうバカらしゅうてでけん。だからそこに焦点を置き、精進することが信心だと言う事がわかって参ります。
 昨日、私は十二時頃だったでしょうか、ちょっと表に気になる事があったから、ちょっと表まで出て帰って来ましたら、高芝さん達夫婦で、二度目のお参りでそこに見えとる所でした。
 それで、私が外に出たものだから、久富先生も後について出て見えて、そこで東脇殿の入り口の所に、四人並んでね。いろいろお話をさせて頂いておったんですけれども、どういう     。高芝さんの御親戚になる方がお参りをしたいと、言うのでここで会おう、と言う事で見えとったわけなんです。どういう事だったからでしょうかね。私共、昨日の朝です。お食事の時に家内との話の中に、昨日の言葉に、今日です。私の今、長男の嫁が、もう計算からいくと、もう五、六日前に生まれとかにゃならんのが、今に持ってる訳です。だから明日、生まれると恵城と、おなじ日になります。と言う話をしてたんです。
 恵城が今日は誕生日だそうです。だから明日生まれるなら、恵城と同じ日に生まれる事になる。家には、そげんとがいくらでんありますばい。ち。
私の方の光昭が椛目の妹と同じ月の同じ日に生まれてるんです。それから愛子が、私の弟の戦死した弟の生まれ日と同じ、六月十三日ですかね。に愛子が同じ日に生まれてるんです。そすと、わたしの方の長男の子供の、一枝と今度、光昭の所に生まれた、親子(ちかこ)が同月同日に生まれてるです。
 そんな話をして、とにかく三百六十五日もあるとにね。その中のたった一日が、しかも家の中にそんなに何人も、あると言う事はこれはもう、こんなにも間違いのない神様の一分一厘間違いのない働きがね、おこっての事だ、と言う事だと言う事を神様が、感じさせて下さる。同日だからどうと言う事じゃないけれどもね。例えば得私の方の愛子が生まれた時なんかは、両親が本当に、弟の公報がきました、すぐあとでしたから、もう大作の生まれ替わりと言うて悲しい事が少し、安らぐような感じでした。もう、こればっかりは、大作の生まれ替わりじゃろうと言うて、愛子が生まれた事を喜びました
 ようにですね。とにかくそういう、間違いのない働き。別におかげとか、そげな事、かかわりはないけれどもね。間違いがないな。と言うようなものを感じずにはおられない。と言うて、ま、高芝さん達にその話をしよりましたもん。そしたら表に自動車がついてから、昨日は久富先生所の子供の時に、小児マヒでこっちの手が動かなかった子供がね。割らしが叩いた時点から手が上がるごつなった。と言うね、それもやっぱり本当じゃないですけれども、おかげを頂きまして、安藤さんのね、お世話でもう、それこそ勿体無いようなところに、お嫁にいきましたんです。そりゃ、婿さんもりっぱな婿さんです。もう、この人がこげなおかげ頂くち、本当に親としては、もう、びっくりするような感じなんです。
 おかげと言わずにおられない。それが昨日、子供の初詣りで久富一家が、皆ばばしゃんやら、皆一家、一家がお参りして来寄る所でした。そしたら久富先生が思い出したように、ほんにそげん言いなさるとですね。今度此孫と私の方で交通事故で、亡くなったつが同月同日に生まれとる。そんならあんた、継義さんち言いよりましたかね。なら継義さんが生まれ替わりたい。と言うて話した事でした。ね。
 ただそう言うような中からね、神様の一分一厘間違いない働きを、受けておると言う事を、実感することが神様をそのまま実感する事でしょうか、ね。わからん、わからんけれどもこう言う。一分一厘間違いのない働きの中に、私共はこうやって、生を受けておるのであり、おかげを受けておあるといった様なことが、実感出来ると言う事が信心の有り難いところだと、私は思うのです。その有り難いと言う心で、自分を見た時、所謂、見極めた時です、ね。こんなことじゃいけないと言う事にもなってくるし、またおかげを受ける時にです。なら、滝口先生ところの長男がね、いよいよ、合楽の親先生まかせで、自分の高校での柔道部に入ってると言うのが、先生がやれと言うならば、やろう。もし止めろ、と言うなら止める腹でおると言うこと。それから今、口でいっておる事と、思うておる事は一致しておると言う事。もう他のなにを望む事じゃない。やはり父親の後を継いで、合楽に修業にいって学院に行く、と言う事はこれは嘘偽りがない事だと思うんです。
 言うておること、自分で思うておること、ね。そう言うおかげを、頂くためにも日々です、ね。言うならば、刻々、神様をこれに実感出来るようなおかげを頂くためにもです。私共の言うなら言うておること、行なっておること、又は思うておることが一致するような精進をしなければならないと言う事が分かります。建て前としては、そうなのだけれども、ね。教学者が言うておるようにね信心を頂いた、いうならそこに実験者でなからなければ、本当の教学は生まれないと言う事なんです。ね、だから合楽理念に基ずいて、なら、本部の方で教学が盛んになって来ると言う事になったら、もっと素晴らしい教学が言うなら、血の通うた、教学だけででも人が助かるような、おかげになって来るだろう、と言うふうに思います。
 今日は、口に真を語りつつ、心に真のなき事と言うような事を、ま、いろいろな例から聞いて頂いたんですがね。いつも自分の心を、言うならば、滝口君に下さった、み教えのようにね、心をみつめ教えを行ずる以外には、ないと言うふうにおもいます。「どうぞ。」